【名言】人生は他人を負かすなんて、ケチくさいものじゃない。【岡本太郎】

名言
Sarah RichterによるPixabayからの画像
人生は他人を負かすなんて、ケチくさいものじゃない。
岡本太郎
本日の名言は岡本太郎さん。
「芸術は爆発だ!」
という名言でも有名ですが、
他にもたくさんの
強く、その中にも優しさを感じる名言を残されています。
今日はその中のひとつです。(一番下に岡本太郎さんまめ知識アリマス。)
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なぜだかある、「上手」「下手」。

私は19歳で演劇という世界に飛び込み、

10年、そこにいたことになります。

演劇ですから、いい意味でも悪い意味でも

人と関わることになります。でないと物が作れません。

 

そして、私がやっている「役者」というもの。

これがまた厄介なもので(笑)

「上手」「下手」があるんです。

でも最近思い出すことがあるんです。

きっと昔はただ楽しく、ただ好きでやっていた。

私は元々声がおおきな人間でした(笑)

すこーーーんと体育館に響く

自分の声に喜んでいたような子供でした。

 

初めて250人収容の劇場で公演したときに

きっとそんな私を見た脚本家が

ただただ大きな声で叫ぶシーンを作ってくれました。

あの頃の私はそれに必死で気づいていなかったのだけれど、

それを笑って見てくれた人がいたと後々聞きました。

人を笑わせるということを体験したことがなかった私にとって

それはちょっと嬉しいことだったのです。

そしてそれが、楽しく、好きなことだったのです。

(限りなく笑わせたより「笑われた」に近い気はしますが笑)

 

ただ、10年も同じように楽しい “だけ” 好きな”だけ” では

やっていけなくなり、困ったことがおきました。

あれ、私、あの人たちよりも下手かもしれない…

高校生のときにダンスを少し習っていた時期にも

身に覚えがあることでした。

本当はこんなに動く体が楽しくて

音に合わせて動くのが楽しくてやっていたはずのなのに…

鏡に映る踊っている自分を見たくない。楽しくない。

人はこういう状態をスランプと呼んだりするのかもしれません。

 

私は、あの人たちより下手かもしれない…

 

これに気づくことは事件だったりします。

この事件が起こると、

今まで楽しくやっていたことが一転。

嫉妬、妬み、恨みで楽しくなくなる可能性があるんです。

さあ、困りました。

でも、勝ったところで何?そもそも「勝つ」って何…?

一旦冷静になって考えたんです。

 

「その人たちに勝ったところで、何が起こる?」

 

「そもそも、勝つってなんだ…??」

 

 

私のやっている芸術というジャンルにとっては
本当に難しいことだなと思います。

もちろんダンスではわかりやすく

あの人の方が体が柔らかい

できる動きが増える
あの人の方が筋肉がある

ピタッとかっこよく止まることができる

ということで勝ち負けはあるかもわかりませんが、
この勝ち負けは自分の怠慢のせいに他なりません。

数をやっていなかった。という結論で終わりです。
ということは

やれば解決。

 

演劇でいう肺活量や声量、セリフ覚えも
きっと同じことが言えるでしょう。

それ以外の勝ち負けってなんだ…。
私なりの結論を出したのです。

自由で自分らしく立っている人が羨ましかった。

私は気づいてしまったのです。

誰よりも自由に、自分よりも楽しそうにステージにいる誰かを
羨ましく思っていたのです。

上手下手の囲いでがんじがらめになった私の横にいる
誰よりも自由にいる上手い人たちが心底羨ましかった。
そして、かっこいいなと思ったのです。

でも、自由人だけではいけない

そこにはその人たちの
「わかりやすい勝ち負け」をすでにクリアしている
という結果もありました。

ただ自由にいるだけでは本当にただの自由人(笑)
かっこいい自由人は私がこんなことに悩んでいる間に
いろんなことをさっさとクリアして自由にいたのです。
じゃあ、もうやることは決まりました。そしてこの言葉です。

 

人生は他人を負かすなんて、ケチくさいものじゃない

岡本太郎

誰かとのあれこれを悩んだり羨む前に、
戦うべきは「怠慢な自分自身である」と。

そしてそれに打ち勝った暁になるべきは
誰よりも自由で自分らしい自分である」と。

この思考を持つだけで

前より強い自分になれたような気持ちになれるのです。

 

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名言をくれた人の紹介とまめ知識

岡本太郎さん(1911-1996)

日本の芸術家(ばいwiki

・漫画家の父と小説家の母との間に生まれる(父方の祖父は書家)

★母は子育てが全くできない人で

岡本さんが3,4歳のとき構って欲しさに創作の邪魔をした際、

兵児帯(男物の和服帯)でタンスにくくりつけられたことがある

・幼少期から絵を描くことが好きだったが

中学時代「何のために描くのか」という疑問を抱く

・画家になるという悩みの中、

絵はどんなものを描いても構わないという思いで東京芸術大学へ進学

・父の仕事で家族でパリへ。その後10年をパリで過ごす

・そのとき出会ったピカソの絵に衝撃を受ける

★「人生で2,3度泣いたことがあるが、その帰り道のバスで

涙が止まらなかった」とテレビのインタビューで語っている。

・「ピカソを超える」ことを目標に絵画制作に励むようになる。

・1942年30代で太平洋戦争の軍備増強のため中国戦線へ。

この頃上官の命令で師団長の肖像画を描いている

・1945年帰国すると空襲により自宅とパリ時代の作品が焼失していた

・1960年代メキシコにてホテルの経営者の依頼で

「明日の神話」の制作を開始(現在、京王井の頭線渋谷駅に設置

・同時期に「太陽の塔」を制作

(大阪万博後取り壊し予定だったが永久保存が決定)

★最初「進歩と調和」という万博のテーマが納得いかず断っていたが

毎晩、万博の責任者が現れ頼まれるので、じゃあ、してみよう。と。

(テレビインタビューより)

★NHK「ばら色の人生」に俳優としてレギュラー出演していた(校長先生役)

 

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